毎月第2木曜日、岳南朝日新聞に母力コラムを掲載いただいています。 コラムタイトルは「母に必要なチカラって何だろう?」です。
4月は望月希久枝が『地域とのつながり』をテーマに書きました。
以下より全文お読みいただけますので、ぜひ読んでみてください。
地域とのつながり
私の生まれ育った土地
私は、神奈川県秦野市という町で生まれ育ちました。結婚を機に、夫の出身地の富士宮市に嫁いできました。神奈川県というと少し都会なイメージですが、私の育った秦野市は、周りは丹沢山脈に囲まれ、山がとても近く感じます。今住んでいる富士宮市と緑が多いところや水が美味しいなど、どことなく似ていることが多くありました。そのため、私は違和感なくすんなりと富士宮市でも過ごすことが出来ているのだなと感じます。
突然の出来事
私の生まれ育った実家が火事で全焼したのは、数年前の3月1日のことでした。夕方に実家の母からのメールで「家の裏の物置が燃えている!」と連絡が来たときは、私はまだ仕事中でした。ちょっとしたぼや程度のものを想像した私は母に「気を付けてね」と伝えました。そして、それから数時間後、「家が全焼しました」との連絡がありました。そのメールを見た私は、絶句でした。その日はとても風の強い日でした。その数時間の間に、とてつもない勢いで家が燃えたのかと思うと、それをただ見ていることしか出来なかった母がどんな気持ちだったのか。それを考えると、とても切ない気持ちになりました。
火事が起きた時間は、夕方の時間。家には母しかおらず、テレビを見ながら横になっていた母に近所の方が「裏の物置が燃えているよ!!」と大慌てで教えに来てくれました。母は、着の身着のまま急いで貴重品だけ持って外に出ました。普段なら実家には、90歳を超えた祖母や、足の不自由な父もおり、二人を連れて外に出るのだったら、どんなに大変だったか。
もし、火事が深夜だったら誰も気づかないうちに逃げ遅れていたかもしれない。私や娘達が
泊りに来ている時だったら、と考えるととても怖くなったそうです。
家は全焼してしまいましたが、幸い家族は全員無事で、近所の家とも少し距離があったため、それ以上の被害もありませんでした。命が無事なら、後は少しずつやっていくしかないね。と母も気丈に言っていました。
私は、母や家族のことが心配だったため、翌日に夫と二人で実家に行くことにしました。自分の生まれ育った家が燃えて、それを見たら悲しい想いになるのかなと、とても緊張していました。しかし、実際は真っ黒になった骨組みしかない我が家を見ても、涙も出ずに、ただただ「無」でした。本当に悲しい時は、涙も出ないのだなと初めて感じました。
そんな家の隣に、母が疲れた顔でいたのを見て、本当に無事でよかったなと改めて感じました。
地域とのつながり
実家近くのアパートの一室に移り住んだ家族の部屋は、昨晩に火事が起きたのが嘘のように部屋の中には、たくさんのものが溢れていました。近所の方々が、代わる代わるに来ては、色々なものを無償で届けてくれました。着ていない新品の服やタオル、あまり使っていないお鍋やポット、食料。中にはコタツや、近くの施設から余っている布団を一式持って来て下さるなど、必要最低限以上のものが揃っていました。家族がバタバタとあわただしい中、そっと置いてくださったものもあり、「誰からもらったのかわからないから、お礼も出来ないよ」と、母が話していました。
普段からご近所の方とも親交はありましたが、こんなにも地域の方々が一丸となって、スピードで動いて下さる力に驚きと感動がありました。そんな心優しい方々がいる土地で過ごせたのだなと思うと、私は今、離れた土地に住んでいますが、とても誇らしく感じました。
コロナ禍の終息に向けて
現在は、地域との方々と触れ合うような催しも、コロナ禍のため一式中止になっている現状です。楽しみにしていた地域のお祭りや、運動会。学校行事も軒並みに規模は縮小されています。今までは当たり前だったことが、当たり前でなくなる。そんな時代だからこそ、コロナ禍の終息後に、何が出来るのか。どうやってつながっていけば、地域と一丸となれるのか。余震なども多い中、いつ自分が、地域が被災するかわかりません。その前に地域とのつながりや、周りの人の顔がわかるお付き合いができるような世の中になれば嬉しいなと思います。そして、そんな世の中が我が子が過ごす未来には、当たり前になっていることを願います。
文責 望月 希久枝
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