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岳南朝日新聞6月掲載されました

  • 母力
  • 2 日前
  • 読了時間: 4分

6月は 望月 希久枝

【別れと感謝~未来に何を残せるか~】をテーマに書きました。


以下より全文お読みいただけますので、ぜひ読んでみてください。


別れと感謝~未来に何を残せるか~


【突然の別れ】

今年4月のある日のことだった。実家の母より「お父さんが意識を失った」と連絡があった。76歳の父は、病気をいくつかしており、その中でも最近のもので大腸がんの手術を少し前にしていた。その時の癌の残りが全身に転移していると聞いたのは、昨年末のことだった。もう手の施しようがないため、残りの期間をどうしていくのが良いのか。という決断を家族に迫られた。それでも、自宅で過ごせるようにと母と実家暮らしの姉が協力しながら、父の介護をしてくれていた。そんな矢先、いつも通りに朝デイサービスへ向かった父が、デイサービス先で意識を失ったとのことだった。その後、なんとか意識を取り戻し、自宅に戻ったものの、状態は決して良くなく、本人は話せるような状態でなかった。いつか来るだろうとは思っていた知らせは、思いがけずに早く、ただそんな中でも落ち着いている自分もいた。私が小さい頃は、身長が180cmもあり、運動もしていたため体格がしっかりとしていた父は、出かけると周りから頭がが一つとびぬけて、すぐに見つけることができた。そんな父が、今は私より足が細くなっている姿をオムツ替えの時に見て、現実を知り、胸が苦しくなった。


もういよいよかなという、そんな空気が流れる中、訪問看護の看護師さんより、在宅でのエンディングケアについての説明があった。これからどのような状態になり最期を迎えていくのかを細かく説明していただいた。こうやって、人は最期を迎えるのかと改めて言葉で知る事ができたが、それでもどこか他人事のように感じた。

そして、自分の生活もあるため実家にいつまでもいる訳にはいかず、実家を後にする時に父に「夜には〇〇(妹の名前)がくるからね。それまでがんばってね!!」と話すと、それまで虚ろに宙を眺めていた父が「おー!おー!おー!」と両手を挙げながら、何か訴えるように大きな声を出して、伝えてきた。それが私と父の最後の会話となった。その翌日の朝、父はすーっと安らかに息を引き取ったと聞いた。


その後、葬儀も無事終えたが、まだ、父が亡くなったという実感は全然ない。父は、車の運転が好きで、よく色々な場所へ連れて行ってくれた。実家がある神奈川県秦野市は水が美味しいところで、父と一緒によく山へ湧水を汲みにいった。山道を車でガタガタといくのは、子どもながらに面白いものはなかったのだが、帰り道にある自動販売機でアイスを買ってくれるのが楽しみで付いて行ったのを覚えている。父は、音楽も好きで、自宅にある自分のコレクションのレコードを大音量でかけたり、私が習っていたエレクトーンもよく聴いてくれた。今思えば、父が喜ぶからと父が好きな曲をよく弾いていたのだなと思った。父はもういないが、こうやって想い出を思い返すことで、その人が存在していたという事実は、心に残っていくのだなと思う。


【親の背中】

私は四人兄弟で、祖父母も同居していた為、8人家族で賑やかな家庭で育った。家にはいつも誰かがいるので、家の鍵を持ち歩いたことがなく、「ただいま~」と帰ると「おかえり~」と返ってくる家だった。一人部屋がなく、友達をうらやましく思うこともあったが、今となっては良い思い出だ。母は、嫁として、母親としての仕事が多く、いつも忙しくしていた。そんな中、父が育児に参加していた記憶はほとんどない。ただ、思い返せは、どこかへ連れて行ってくれたりと、父なりに出来ることをしていたのだなと大人になってから気が付いた。それぞれの家庭でのあり方に、正解はなく、それぞれのやり方で良いし、その背中を見て、こどもたちは育っていくのだなと思う。


【感謝の気持ち】

先日、先輩から、「お互いいつ何があるかわからないから、喧嘩をしても、最後は感謝の気持ちを伝えて終わろう」とご夫婦で決めているという話を聞いた。人はいつか必ず終わりを迎えるが、その時がいつかはわからない。その時に向けて、悔いなく生きるというのは素敵だなと思った。日々、感謝の気持ちを忘れないということは、簡単に出来そうに思えるが、実際に行動にするのは難しいと思う。ただ、手始めに自分の意識を変え、周りにいつもより少しだけ優しくするというところから始めても良いかなと思う。皆さんも、そんな心の余裕を持ってみてはいかがだろうか。そんな人たちが暮らす町は、きっと温かく、過ごしやすいところとなり、そんな未来をこどもたちに残せれば良いなと思った。


文責 望月 希久枝

 
 
 

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